ブリッジオブスパイ(トムハンクス主演)・ドノバン、アベル、パワーズその後の人生
ブリッジオブスパイ
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— Bridge Of Spies (@BridgeofSpies) 2015, 11月 17
時は、1962年3月6日 アメリカ合衆国空軍所属のパイロット、フランシス・ゲーリー・パワーは、アメリカ上院軍事委員会の公聴会で先のU2偵察機がどのようにしてソビエト連邦軍のミサイルで撃墜されたのかを証言した。
状況検分からも彼の身の潔白は、明白で、彼は、従来どおりの役職に復帰していた。
時のケネディー大統領は、米ソ捕虜交換交渉の一番の功労者ジェームス・ドノバンをホワイトハウスに招き、感謝状を直接手渡した。
1962年の夏、ルドルフ・アベルは、ジェームス・ドノバンに2冊の希少な書物を贈っている。一冊は、16世紀に書かれたラテン語の上質皮紙、それからもう一冊は、法律の解説所である。その表紙の裏には、ルドルフ・アベルが、深く感謝していることがつづられている。
ジェームスB.ドノバン
アベルの弁護を引き受けた、ドノバンは、米国民の激しい反感を買うこととなり、時には生命の危険にさらされたことや、完全な無視、自宅前でのデモンストレーションなどさまざまな抵抗にあうのである。
しかし、U2撃墜事件後の米ソ捕虜交を全世界が見守る中で、交渉を成功裏に終わらせたことで、彼は、一躍英雄となるのである。
その後、彼は、アメリカ合衆国の主席検事特別補佐役として、「ニュルンベルク継続裁判」にてナチス・ドイツの大量虐殺の事実やOSSエージェントに対する拷問、処刑などの事実を証明してみせた。
同じ年の1962年には、キューバのフェデル・カストロ議長との長時間にわたる交渉の末、ピッグス湾進行失敗の時に捕らえられた軍人1,113人と民間人8,500人、他の30人のアメリカ人捕虜と3人のCIAエージェントを解放することに成功した。
ジェームス・ドノバンは、1970年1月19日に心臓発作のため、54歳の生涯を終えている。才能ある交渉役の彼は、アメリカ合衆国の外交担当として、将来を有望されていたのだが、54歳の働き盛りの死は、あまりにも早すぎると言えよう。
フランシス・ゲーリー・パワーズ
左:パワーズ 右:アベル
フランシス・ゲーリー・パワーズは、事件の後、ロックヒード空軍基地にてテストパイロットとして働いていたが、後にロスアンジェルスのテレビ局のヘリコプターパイロットに転職する。
しかしながら、フランシス・パワーズは、1977年にTV局の取材飛行中、ヘリコプター事故に遭い、その命を失っている。U2撃墜で一命を取り留めたパワーズもやはり最後まで、飛行気乗りだったと言う事か。
パワーズの死後、アメリカのペンタゴンでは、彼の勇気と栄誉をたたえ、『シルバースター』の勲章を授与している。
ルドルフ・アベル
ルドルフ・アベルは、釈放直後の1962年の2月10日に妻エレーナと娘のエベリンとともにソビエトに帰国している。
彼はしばらくの間、KGB内の若手養成課で次のスパイを育成すべく、講義をしたり、必要な教育を生徒たちに与えていたのだが、一度西側の生活を体験してしまったルドルフ・アベルは、次第にソ連に対して、失望していくのである。
ルドルフ・アベルは、1971年の11月15日に肺がんのため、その69年に人生を終えている。ルドルフ・アベルの葬儀は、彼の功績と栄誉をたたえ、モスクワのKGB本部で執り行われ、そしてドンスキー墓地に埋葬された。
ドイツ・グリーニッケ橋
まとめ
実際のところ、KGBスパイ、ルドルフ・アベルがどれほどの功績を残したのかは、超極秘扱いとして、永遠に明らかになることはない。
しかし、ドノバン、パワーズ、アベルの3人が激動の時代を生きた証として、『ドイツ・グリーニッケ橋』は、今でも『ブリッジオブスパイ』と呼ばれている。
2016年1月8日から全国ロードショー!